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教えることで、初めて気づいたこと【前編】―教育者という立場が、どれほどありがたい環境か

教える側になって、初めて分かったこと

専門職として経験を積むと、いつの間にか「教える側」になっている。

研修医を指導する。若手医師のメンターになる。学生に講義をする。

最初は、「自分にできるだろうか」と不安でした。時間も取られるし、責任も重い。正直なところ、負担だと感じていた部分もありました。

でも実際に教え始めてみると、予想外のことに気づきました。

教えることは、学ぶことだった。

それも、自分一人では決して気づけなかった種類の学びでした。

ここでちょっと気分を変えて、教育者としての視点が、キャリアにどう影響したかを書きます。


説明できない=理解していない、という現実

最初に直面した壁

教え始めて最初に直面したのは、「分かっている」と思っていたことが、実は分かっていなかったという現実でした。

救急対応の手順、診断のプロセス、判断の根拠。自分ではできている。臨床では問題なく動けている。

でも、後輩に「なぜそうするんですか?」と聞かれたとき、言葉に詰まる。

「えっと、それは…」「普通はこうするから…」「経験的に…」

こうした曖昧な答えしか出てこない。

これは、知識が不足しているのではなく、知識が構造化されていないということでした。

「できる」と「説明できる」は違う

医療の現場では、「できる」ことが最優先です。

緊急時に正しく判断し、適切に処置できる。それができれば、とりあえず仕事は回ります。

でも、教育者としては、それだけでは不十分でした。

「なぜそうするのか」を説明できなければ、後輩は納得できません。表面的な手順だけを覚えても、応用が利かない。状況が変わったときに対応できない。

説明するためには、自分の判断プロセスを言語化する必要がありました。

どんな情報を見て、どう判断しているのか。複数の選択肢の中から、なぜその方法を選んだのか。リスクとベネフィットをどう天秤にかけているのか。

こうした思考のプロセスを、一つ一つ言葉にしていく。

その作業を通じて、初めて気づいたのです。

自分は、思っていたほど理解していなかった。


教えるために、学び直す必然性

説明できないことは、調べ直す

後輩に質問されて答えられなかったとき、取るべき選択は二つです。

一つは、「まだ経験が浅いから分からないだろうね」とごまかすこと。

もう一つは、「自分も正確には説明できないから、一緒に調べよう」と正直に言うこと。

私は、後者を選びました。

そして、改めて教科書を読む。論文を確認する。ガイドラインを見直す。

すると、驚くことに気づきました。

自分が「当然こうだ」と思っていたことが、実はエビデンスレベルが低かったり、すでに古い知識だったりすることがある。

逆に、「なんとなく」やっていたことが、実は非常に合理的な根拠に基づいていたことも分かる。

教えるために学び直すことで、自分の知識が更新され、深まっていく。

これは、一人で臨床をしているだけでは得られない学びでした。

「教えるための準備」が、最高の学習になる

講義の準備をするとき、私は膨大な時間をかけて資料を作ります。

スライド一枚一枚に、根拠となる論文やガイドラインを確認する。どう説明すれば分かりやすいか、何度も推敲する。

正直、この作業は大変です。時間もかかるし、労力も必要です。

でも、この準備の過程こそが、最高の学習機会でした。

自分のために勉強するときは、どうしても甘くなります。「だいたい分かった」で終わってしまう。

でも、人に教えるとなると、そうはいきません。

「だいたい」では説明できない。曖昧な理解では、質問に答えられない。

だからこそ、徹底的に調べる。深く理解する。構造化する。

この過程を経ることで、知識は自分のものになります。

教えることは、最も効率的な学習方法の一つだと、今では確信しています。


教育者という立場の、本当のありがたさ

負担ではなく、特権だった

最初、私は教育を「負担」だと感じていました。

自分の時間が取られる。責任が重い。うまく教えられるか不安。

でも、教え始めてしばらく経ってから、考えが変わりました。

教育者という立場は、負担ではなく、特権だった。

なぜなら、教える立場になることで、「学び続けざるを得ない環境」に身を置けるからです。

一人では怠けてしまう

正直に言うと、私は一人だと怠けてしまうタイプです。

「まあ、今のままでもなんとかなるか」「忙しいから、勉強は後回しでいいや」

こうして、学ぶことを先送りにしてしまう。

でも、教える立場になると、そうはいきません。

後輩が質問してくる。講義の準備が必要。説明できないと、信頼を失う。

こうした外圧があるからこそ、学び続けることができる。

教育者という立場は、自分を成長させ続けるための、最高の仕組みだったのです。


「教えられる環境」に感謝する

教える機会は、誰にでもあるわけではない

考えてみれば、教える機会があるということ自体、恵まれていることです。

後輩がいる。質問してくれる人がいる。講義を依頼される。

これらはすべて、信頼されているからこそ与えられる機会です。

若手の頃は、「早く教える側になりたい」と思っていました。それが、成長の証だと考えていたからです。

でも実際に教える側になってみると、違う感覚が芽生えました。

教える機会を与えられることは、自分が成長するチャンスを与えられているということだ。

後輩の存在が、自分を引き上げてくれる

後輩は、私に質問をぶつけてきます。

ときには、答えに窮する質問もあります。自分の知識の穴を突かれることもあります。

でもそれは、決して嫌なことではありません。

むしろ、自分の弱点を教えてくれているのです。

そして、その質問に答えるために学び直すことで、自分はさらに成長できる。

後輩の存在が、私を引き上げてくれている。

そう考えると、教えることは「与える」行為ではなく、「与えられる」行為でもあるのだと気づきます。


教育者としての役割を、どう捉えるか

義務ではなく、機会として

専門職として経験を積むと、教育的な役割を求められることが増えます。

それを「義務」「負担」と捉えるか、「機会」「特権」と捉えるか。

この違いは、大きいと感じています。

義務だと思えば、重荷になる。できるだけ避けたくなる。

でも機会だと思えば、積極的に引き受けたくなる。そして、そこから多くを学べる。

私自身、最初は義務だと感じていました。でも、実際に教えることで得られた学びを振り返ると、今では機会だと確信しています。

教えることで、自分が一番学んでいる

教育者としての役割を引き受けてから、私は明らかに成長しました。

知識が深まった。説明力が上がった。思考が構造化された。

そして何より、学び続ける習慣が身につきました。

これはすべて、教える立場になったからこそ得られたものです。

もし教える機会がなければ、私はきっと成長が止まっていたでしょう。

教えることで、一番学んでいるのは自分自身なのです。


まとめ:教育者という立場は、ありがたい環境

教えることは、負担ではありません。

説明できないことに気づく。学び直す必然性が生まれる。知識が深まり、構造化される。

そして、学び続ける環境に身を置ける。

教育者という立場は、自分を成長させ続けるための、最高にありがたい環境です。

もしあなたが今、教える機会を与えられているなら、それは負担ではなく特権です。

ぜひ、その機会を活かしてください。

教えることで、あなた自身が最も成長します。


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